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おさななじみのアパートで・・ [70歳のじいさんにも青春はあったのだ]

おれの仲いいおさななじみが津田塾へ行ってて

同じアパートに住んでる一橋のやつらといつの間にか仲がよくなったんさ


さすがに友達というても異性なんで部屋にはとまれやんだんさ

そのうち仲がよくなった一橋の野郎のとこへ泊るようになったんさ


ある日いつものように近隣の一橋のやつらも集まり

酒飲んでたんさ

そのアパート専門学校のやつも2人おったんけど

気がついたらオレ以外一橋・・

別にそれはどうってことなかったんだけど

話が受験にいったんさ


もうわかるやろ

一橋のやつらて、滑り止めが早稲田慶応クラスなんさ

早慶というたらオレの大学よりかずっと上の偏差値の大学やで

滑り止めの大学でめっちゃ盛り上がって

そんな会話の盛り上がりに入っていけなくて

部屋から逃げるのもかえって目立つし

じっと じっと がまんの長い夜だった


その大学偏差値をまざまざと見せつけられたのが就職

オレらが在学中にオイルショックがあり、その影響で就職難がはじまった

オレは成績も悪かったし、会社訪問もめんどくさかったんで

あきらめて地元の銀行へでも就職しようと思ってった

ちょっとコネもあったんでそこに絞ったんさ

ところがあえなく討ち死に

情けなくて・・・

それに比べて一橋のやつらは早くから就職人気ベスト10の会社に続々と内定していた

唯一決まってなかったやつがおって、就職決まらん同士でしばらくなかようしとったやけど

在京のテレビ局に就職が決まったと知り、ショックやったなぁ

そして、オレは留年するしかなかったわけ。


今となってはなつかしいけどな

それよりも悔しい思いしたこともあったしな

テレビ局へ就職したやつは社長まで登りつめてそれはそれで友達自慢の種になったし

人生いろいろやわ


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オレのいっとった大学人気6位 その 2 [70歳のじいさんにも青春はあったのだ]

そのオレが行ってた大学が、なんかの受験生希望の調査で人気6位になっていた


オレが行ってたときは、スポーツとかでは上位に君臨していたが

一般学生のオレらにはあまり自慢にはならなかった

そりゃちょっとは嬉しかったけどさ

特にE川選手が入学して勝ちまくってたころはな 

E川選手は投手なんだが、バッターでも活躍してた

完投して抑えで出て、規定打数に達して打撃ベスト10にも入ったこともある

今で言えば二刀流やな 代打とかに出てた記憶もある

高校時代から肩を酷使してたので、プロ野球生活は短かった

そもそも大学入る時もプロ入る時も一悶着っていうか大騒ぎがあったんで

マスコミからは終始よく思われてなく 何か引退会見もその延長だった


おっと話がそれた


オレみたいに偏差値が高いらへんの高校のもんは、あかん気分で大学へ入ってくるけど

偏差値が低い高校から来たもんは、胸を張って入学してくる

ひとによって自己肯定感に差があるんやな


オレはそんな気分で大学5年間過ごしたので

それが一番の後悔やわ



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オレのいっとった大学人気6位 [70歳のじいさんにも青春はあったのだ]

京都に憧れた高校3年生だったが

結局京都の大学へは行かなかった

行けなかったが正確な表現かも


オレの欠点は変に現実的なところ

大学選択もそうだった

自分の模試の偏差値と授業料だけで志望校を決めてしまった

京都だけに絞り数打てば当たったかもしれないのに

自分の偏差値に合わせて、関東関西と散らばらせてしまった

ここに来て親の負担を少しでも減らそうと、授業料の割安なところばかり選んでしまった

うちは特に貧しいわけでもない中流家庭だったし、親もそんなこと拘ってなかったのに

場違いな親孝行心だった

一応京都は同じ大学学部二つ受けたが討ち死に

結局一個だけ受かった東京の大学へ進学した

仲いい友達が、オレの第一志望の大学を滑り止めにしてて

彼は第一志望の国立大学受かり、当然のことながらその大学蹴り飛ばしたとき

ほんとうに惨めだった

そして、もっと惨めだったのは、その京都の大学諦めきれず

違う友達Tに頼んで、大学に直接合否確認の電話してもらったことである

Tはちょうどその日パチンコで負けて、少ない報酬でもオレの無理な願いを聞いてくれたのだった

そんなん合否に間違いあるわけないわなぁ・・・

この話は今でも惨め自慢できるわさ


そして、オレは東京のその大学へ進学した。

でも、オレは全然なじめんかった

オレのクラスは附属第二高校からあがってきたやつらが固まっていた。

第二高校は横浜近郊でおれからしたら都会のやつらだ

田舎もんとしてのコンプレックス、関東弁へのコンプレックス、

上京し誰も知らない中ポツンと一人いるオレに対し、

はじめから知り合い同士のやつらがクラスをしきっているのがたまらなかった


ところがそうやってひがんでいるのはオレだけじゃなかった

だんだんひがみグループが集団をつくり、クラスは二つに分裂


ひがむ心はちょっとした憧れの裏返し

オレはそいつらから寝返ったのだ

しかし附属のやつらと仲良くなったのは嬉しかったけど

元のグループを裏切ったみたいで、心から喜べなかった

そういう葛藤はあとの人生で役立つかも知れないが

とりあえずオレにとっては、楽しい大学生活とはいえなかった


ただ武道館の近く北の丸公園でやつらがいつもやってたソフトボールかハンドベースに少しだけ参加できたのは

今となっては楽しい思い出である


オレたちの大学は学生運動のあるセクトの拠点校で

ことあるごとに大学側がロックアウトした

その一時代前学生側のバリケードストだっただったが、その頃は大学側が先手をとったのかそうだった

しょっちゅう定期テストがレポートにかわり

そのおかげで卒業できたみたいなもんやけど

オレは前述したようにこの大学への進学をよしとしてなくて

それが理由にはならないけど、ふざけて第1外国語をフランス語にしたのだった

ほんとふざけかたがおかしい

フランス語の先生の一人に芥川作家の人がいて、そのレポートは動詞の活用形を書くだけでほんとうに助かった

もう一人の先生も有名な人でたまにマスメディア出てくる人だったが、その人の課題は結構厳しめで苦労した

                                         つづく 

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1971年 祇園祭りの頃 [70歳のじいさんにも青春はあったのだ]

オレが高校⒊年生の夏やで多分1971年の夏や

チェリッシュが「なのにあなたは京都に行くの」の曲で

男子の多くは京都へ行きたがった

オレもその一人やった

オレも漠然と京都の大学へ行きたいと思とった

その高校生の夏、一足先に京都の大学に進学した一学年上の友人(その頃は帰宅部には先輩後輩の規律はあまりなかった記憶が・・ジャニーズみたく○○君てよんでいた)に誘われて、

京都の祇園祭りの日に京都へ向かった話や

たまたまその日が祇園祭りだったのか、それが目的だったのか、今となってはよくわからないが、

祇園祭りの日だったことは確かだ


その頃国鉄は民営化していなくて、津駅からは京都行きの直通急行が出ていた。

近鉄は大阪線回りで、大和八木・大和西大寺経由で、ずいぶん遠回り

それに比べ国鉄は草津線経由なので、

近回りで時間短縮、距離短絡で運賃も安くまた100㎞を切るので急行料金も100円だった

民営化してからは東海と西日本に分割され、利用客は近鉄に丸投げされてしまった

今や普通列車乗り継ぎ3駅、通しでJRに乗るのは、その時期の青春18切符ユーザーだけだろう


話はテツの道にそれたが、その津駅から急行志摩号で京都に向かった

同行は猪野君という一学年下の友人だった

オレたちの高校は制服規定のない学校だった

しかし、オレたちの学年までは男子は学生服を着ていたり、

女子は標準服という入学式で販売される服を着ていたりしていた

一つはマスクは個人の判断でと言われても、みんながマスクしているみたいなもんで、

制服ぽくない服装は、先生に目をつけられるような、みんなから不良と思われるみたいな同調意識やんか

もう一つは、単にみんな服装とかどうでもいいダサいやつらの集まりだったとも言えるけど

ところが猪野君はブルージーンズをはいて入学してきた

そして猪野君を核として、地味めでダサいオレたちの高校にカラフル服装革命がおこったのだ

オレはそんなセンスと勇気のある猪野君を年下ながら尊敬し、次第になかよくなっていったんさ

そして猪野君の近くにいれば、かわいい子と出会えるような気もしてた


その予感があたり、オレに彼女ができた

猪野君と図書館にいるときに近くにいた女子校生だった

声をかけたのはオレだったが、猪野君が一緒にいて心強かったのかも知れん

彼女の名前はせつこちゃん、背服はロングスカート私服は超ミニ

そんな女子はオレたちの高校にはいなかった


話を戻すと、そのせつこちゃんが津駅まで見送りに来てくれたんさ

オレは「なのにあなたは京都へ行くの」の歌のミニ版みたいな自分に嬉しかった

ところがそれに反して嬉しくないやつがおったんさ

それは猪野君さ

猪野君もせつこちゃんのこと好きやったんさ

せつこちゃんがオレを見送りに来たのがショックやったらしい

最初は暗い顔で落ち込んで

それから「なんでオレに言うてくれやんだん・・・」と

車中でずうっと責められた

気動車のエンジン音も、気まずい空気を消してくれなかった

でも、京都に着いたころには気を取り直してくれて

京都駅から市電に乗り、一学年上のともだち大杉君の待つ、k大k寮へ向かったのだ


k寮へ着くなり、オレらを待ってた大杉君から、

「ちょうどよかった(もう一つ上の)パラダ君の夜逃げを手伝ってくれ」

とか突然言われ、その夜パラダ君の下宿に連れて行かれた

パラダ君はめっちゃモテ男で、同じ中学でオレらの学年の女子をいっぱい持って行かれた伝説の男だ

それは高校でも勢いを増していた

下宿へ行くと大きな荷物が二つあった。

一つは古い行李、もう一つは紐でくくられた大きなもの

行李なんて50年前でも珍しかったが

どうやら家賃が払えなくて、k寮にころがりこむようである

k大生でもないのにk寮にころがりこむなんて、今でもあまり理解できない

学生運動が盛んだったその頃、k寮は学生が自主管理していた

k大生でもなく、学生運動の活動家でもない彼が寮に住めるなんて、未だに謎だ

その下宿へタクシーを呼び、荷物と4人は寮に向かった

記憶ではタクシー1台なのだが、4人+荷物では物理的に無理なんで2台だったのかも知れない

いや後ろのトランクに荷物が入れば1台もありかな・・・

でも、はっきりした記憶はタクシー代が足らなくて途中で下ろされたこと

まるで、テレ東の千原ジュニアの番組みたいに

でもジュニアは人間だけ降りるが、この夜逃げは荷物も降りる

それから寮まで、交代で荷物を持って歩くのだ

これが罰ゲームみたいにしんどかった

特にオレは4人の中で一番体力がないのですぐ弱音を吐いてしまう

われながら情けなかった

でも本来ならやらんでもいい仕事やのに……

そう考えると余計に情けなかった

夜の京都の町を4人が交代で荷物を持ち運ぶなんて、今なら誰かに通報されるか、snsに上げられるか・・・

そして結構かなりの距離を歩き、ようやくk寮に着いた

パラダ君は日当として、オレたちにラムネを振る舞ってくれことは忘れられない

ふつうは「こんなにしんどいめにあって、ラムネ一本かよ」と思うところだが

タクシー代がなくなったパラダ君にラムネ代があったのが不思議だった


翌朝、パラダ君の部屋行くと、さっそくきれいな女性が訪れていた

何でこんな男にこんなきれいな女子が寄ってくるのか、不思議というよりも腹が立ったのを覚えている

パラダ君はそれまでそのビジュアルでモテていたと思っていたが、

母性本能をくすぐられてしまうのかも知れない

多分お金も女性が出しているのかも知れない

パラダ君の父親は有名な大学教授で、ふつうは経済的には恵まれているはずやけどあの貧しい暮らしななぜ?

浪人してるという話だったが、大学に入れたのか?

その後のパラダ君の人生はどうだったのか?
地元のジーパン屋の店員だったらしいことは聞いたことはあるが、それ以外はわからない


タイトルは祇園祭りであるが、

祇園祭りのことは全く覚えていない

今年の祇園祭りの日と同じように猛暑だったのと

「祇園祭りに行く」という目的だったことだけは覚えている

祇園祭りのニュースを見るたび

夜の京都の町を歩いた、あの引っ越しを思い出すのであります




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このブログずっと忘れとったわ

このブログずっと放置しとった


ソネットから、かわったことも完全に忘れとった

移行したことも忘れとって

もうしんでるとあせったけど、生きとってよかったわ


明日で70の大台に乗る。何か残しときたいという気持ちがじわじわと来たんさ


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小学生にワープ1 [小学生の頃の思い出]

オレは昭和の終わりまで村だった田園地帯の小さな村に生まれた。

平坦な土地であるので山奥の村のように、過疎化の波にのまれることもなく、逆に近年は都市化が進んでいる。小学校はオレらの時は全部1クラスだったが、今はだいたい3クラスあるようだ。平成の大合併で隣接した市と合併した。形は対等合併であったが、実質は吸収されたようなものである。

まあそんなとこに生まれたんさ。


クラスのほとんどが農家だった。オレみたいにサラリーマンの家庭はほとんどなかった。当時ではまれな共稼ぎで母が小学校の先生をしていたので、ほかの家庭より頭一つ裕福だった。幼稚園児の時、近所で三番目に家にテレビが入った。長嶋選手がCMに出ていたサンヨーのテレビだったのを覚えてる。お昼に月光仮面をやっていたので、近所の子たちが集まってきた。紅白歌合戦は大人の人たちも見に来た。家がにぎやかで嬉しかった覚えがある。

しかし、高度成長のカーブは急激に右上がりになり、あっという間に近所にもテレビは普及し、うちへテレビを見に来る人はいなくなった。

このようにテレビが来た日はよく覚えているが、物心つくと共にテレビがやってきたので、テレビのないそれまでの生活は全く覚えていない。「どんな生活しとったんやろ」と時々思う。

それ以来テレビは一番の友達なんかも知れない。今の時代パソコンやスマホはあるけど、テレビがないとなんとなくさみしいんさ。


小学校3年くらい、アニメの鉄腕アトムがはじまった頃には、テレビの普及率は100%になった。民放テレビ局は2つしかなかったんで、子どもはみんな同じ番組見とったんやと思う。8時台になると、ちょっと大人テイストな青春ドラマとかがはじまり、うちの親だけはそれを見せてくれやんだ。記憶違いかもしれんが、東海地方は東京キー局の複合ネットで、鉄人28号が8時台に放送され、それが見れなかったのが悲しかった。何より学校で話題の中に入れやんのがな。


うちは何か知らんけど教育によくないということで、漫画本は買ってくれなかった。これも悲しかったなぁ。冒険王とか少年とか少年画報とかいろいろ月刊漫画があって、読みたかったけど絶対あかんだわ。結局それらの本はテレビの普及でだんだん廃刊していったけどな。

漫画本を買ってもらえやんだ反動で、自由になって漫画にのめり込むと思うやろ?

でも、オレは漫画に全然興味がなくなってしもた。大学生の頃少年マガジンとか大流行したときは、話を合わせるためむさぼり読んだが、今思うとやっぱり無理に読んでた感があるなぁ。


中学生の頃になると、家にテレビが増えて、だんだんパーソナルなものになってくる。みんなが寝静まったころ、こっそり11PMを見るのが楽しみやった。大橋巨泉や藤本義一は夜の学校の先生みたいなもんやった。

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ということで宝物のことですが [1970年代の日記は青春の思い出の宝石箱や]

時を超えて見つかった日記やけど、


その中に、まぼろしの恋の記述があったんさ・・・


中学高校と同じ学校で、幼馴染みみたいな子が小平のアパートに住んどったんさ


そのアパートには、近くの1大の学生がようけおって、その人らとも芋づる式に仲ようなったんさ。中でも後に某テレビ局のえらいさんになったやつとは気が合って、競馬場(府中)へはじめて行ったのも彼やった。ホワイトフォンテンが逃げ切ったAJC杯やったわ。

まあ、他にも色々思い出はあるんやけど、99.9%忘れてたし、ほとんど思い出せんやんことが日記に書いてあったんさ。


それは、1大の関係で二人の女子大生と知り合ったことだ。しーちゃんとりえちゃんという子や。今どんだけがんばっても「しーちゃん」は阿部静江さんしか思い出せない。りえちゃんは、いろんな「りえちゃん」しか思い出せない。


そのどっちかに、オレは恋したらしい。二人の女子大とおれの大学はたまたま最寄り駅が同じ〇ヶ谷駅だ。オレは大学の帰り黄色い電車を何本も見送って、偶然を装って駅で会うつもりだったらしい。ところがそう思って大学へ行くため電車を降りると、早速彼女らと会ったらしい。田舎の一時間1本単線単行ディーゼルの国鉄やないんやで、ひっきりなしに来る国電総武線やで。すごい偶然やわ。多分オレは恋の奇跡と思ったんと違うか?


この日は色々偶然が重なったみたいだ。彼女らはその夕方芝公園で1大の4人に会うことになっていた。前日1大の柳北に遊ぼとかで連絡したがつうじなくて、その友だち乾野に電話したら、「みんなで芝公園に集まることになってるんで来たら柳北に会える」と言われたらしい。オレは彼女らに芝公園へ誘われて、ノコノコとついていくことになったらしい。
ところがしーちゃんは他の男友達と新宿で待ち合わせていたんだ。それをドタキャンしてまで柳北に会いたかったやぁ。直接会って断るだけマシやけどな。今の時代ならそんな時のツールは揃ってるからその手はないだろうが。

そして、またまた偶然、そのドタキャンされた奴が、よくよく聞くと何と高校の同級生だった。彼はKO大生でどこでどうつながっているかわからんもんやわ。ちなみに彼は今頭取さんや。まさか頭取夫人しーちゃんとちがうやろな。

そして、途中でわかれたりえちゃんと合流して芝公園へ。すると乾野以外の3人がいた。しかし、3人はビックリしてたのだが、ビックリリアクションがちょっとおかしいんやけど・・・。と思うと、その中の竹山がオレに耳打ちした。「マメちゃんも来る」マメちゃんは柳北の彼女なんだ。鉢合わせにならんようにオレに何とかしろって。書き忘れたけど、遅れてくる乾野からは彼女二人のことは何も聞いてなかったようだ。
どうもオレは苦し紛れに、東京タワーへ行ったらしい。しかし、不審に思った彼女らに真実を告げるしかなかったのだ。すると彼女らはかなり落ち込んだ。そして、乾野に彼女がいるか問い詰められ、それも正直に「いる」と答えてしもた。彼女らは更に落ち込んだ。本命柳北、対抗乾野やったみたい。△頭取。おれ無印か
落ち込んだ彼女らを見て、彼女らよりもっと落ち込んだのはオレだ。しかし、オレにはプライドがあったのか、その姿は見せられなかったんだ。家へ帰りめっちゃ惨めな気持ちになった。


日記にはその日のことが、詳細に書かれていた。


しかし、おれは全然覚えてないんだ。こんなに偶然が重なったことや、悔しく惨めな気持ちになったのに。


でも、悔しく惨めな切ない気持ちだけは心に残ってるんだ。そのむなしい気持ちだけがよみがえったんさ。


その前後の日記、愛称シコシコに頼まれて、今は鈍平の嫁になってるうめちゃんを電話でさそい断られたことや、三浪して医学部入学し、これで女にもてる人生花開いたと意気揚々と上京してきたが、全く女子と縁がなかったが、やっとこさ初恋の人と約束を取り付け、へべれけに酔ってしまった根津内のことは、よく覚えているのに、なぜにシーちゃんリエちゃんのことは忘れてしまってるのか、ほんと謎。まさか日記は捏造せんやろ。


1大の一番気が合ったやつは、同じく女に縁がないことで仲良かったんやけど(笑)日記によると他1大生はみんな大手商社に就職内定してたけど、彼だけがしてなかったらしい。もちろんオレも同じ立場だ。しかし、その後彼は某テレビ局に就職そしてえらいさん。オレはというと、就職浪人で留年する。そして、しょぼい会社に就職。でも、彼は人間的にすばらしかったから納得できるし、嬉しい。あまりにもえらいさんになり遠すぎて、お祝いの言葉をかけられないことが一番残念なことやわ。 




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ということで宝物のことは一旦置いといて②USJ

 父は大阪大空襲で、自宅を失い職場を失った。特に父の住む港区は米軍爆撃の照準点で激しいものであったという。職場の日立造船は軍需工場でもちろんのこと狙われた。そんな厳しい状況の中、九死に一生を得たからこそ、私に命がつなげられた訳だ。生き延びてくれたからこそ、自分は生を得ることができたのである。改めて誕生日は、自分に命をつなげてくれた両親に感謝する日だと思う。(家を焼かれしばらくは防空壕で暮らし、その後祖父の故郷に帰ったが住むところもなく、親戚の鶏小屋にしばらくいたらしい。)
 写真の辞令は、旧制中学を卒業し就職した日立造船のものである。日立辞令 (3).JPG燃える物は全て失ったはずなのに、なぜかこの辞令だけは残っていた。戦火の中生きぬいた証しなのかも知れない。ちなみに、この日立造船の焼け跡はUSJ(ユニバーサルジャパン)になってるらしいですわ。その話が分かってから、ぼくにはUSJは平和の象徴のように感じるんです。
 昨日からUSJも再開したそうですね。だからほんとよかった。USJにはほとんど関心はないけど、親父が過酷な青春を過ごした場所を訪ねてみたいと思ってます。

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ということで宝物のことは一旦置いといて

調布のアパートに住んでいて一番驚いたのは

一階の部屋に、高校の同級生が引っ越してきたことだ。

しかも同じ村の出身、しかも3年の時同じクラス

こんな偶然あるもんやぁ

おらが村の人口は8000人やから

同じ村人と広い東京で同じアパートに住むなんてすごい偶然や

もっとも、彼は近くの電通大の学生で、そこに住むことは特に不思議なことではない

千代田区にある大学生のぼくが、ここに住んでることがまあおかしいんやけど


ある日、彼の原付(村から何百㎞も自走してきた)を借りて電通大の近くか構内で乗っていたら、パトカーに止められた。どうもナンバープレートの村が怪しかったようだ。「どこにあるんやそんな村?」と訝しげに聞かれたこと覚えてる。

近くに持ち主もいたし、警察無線確かめたあと無事解放された。やましいことはなかったのだけど、確かめてる間ドキドキしたなぁ。


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ということで宝物は、大学生時代の日記だった

そんな日記があることも、すっかり忘れていたので

ちょっと嬉しかった


半年ほど前、大学時代に3年間過ごした調布を訪れた

グーグルアースで下調べしたときに、調布駅が地下化されていてビックリしたが、

実際に行ってみると、それ以上に驚いた


「街がかわっている!」


駅前に友人のアパートがあったのだが、跡形もなかった


自分の住んでいたアパートは、比較的新しくて住宅兼用(半分がアパート)の○○様方だったので、まだあるかもと思い探したが、跡形もなかった


近くに昭和後期独特の雰囲気のすてきな喫茶店があったので探したが、それもやっぱり跡形もなかった

その後、その喫茶店の名前が思い出せなくて、ずっともやもやしてたのだが、


その日記に「『ろ茶房』に行った」と記述されていて、もやもやが消えた


その『ろ茶房」のすぐ近くに小さな公園があった


ある朝寝ていると、「大変大変!」と大家のおばさんがけたたましく、鉄製の外階段を駆け上がってきた。


「公園で百恵ちゃんがロケしてる」

百恵ファンだったので、慌てて公園に駆けつけると、

赤いシリーズのロケで、宇津井健さんとセリフをかわしているところだった


その後すぐにロケは撤収。百恵ちゃんはスタッフと談笑しながら

アパートの方へ歩き出した。

そして、アパートへ戻るぼくと並走状態になったのだ

第三者から見たら、ぼくもスタッフと思うくらいの至近距離だった


でも悲しいかな、その時間は5分もなかった

もちろん話しかけることなんてできない

アパートに着くと、ぼくはそのまま振り返ることもなく鉄の階段を駆け上がってしまった

2度とないチャンスだったのに、ドキドキするだけで全てが終わってしまった

確かにしばらくは百恵ちゃんに恋をしてたような気がする


その後、百恵ちゃんはテレビの中の人へ戻り

三浦友和の家の中の人になってしまった



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