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オレのいっとった大学人気6位 その 2 [70歳のじいさんにも青春はあったのだ]

そのオレが行ってた大学が、なんかの受験生希望の調査で人気6位になっていた


オレが行ってたときは、スポーツとかでは上位に君臨していたが

一般学生のオレらにはあまり自慢にはならなかった

そりゃちょっとは嬉しかったけどさ

特にE川選手が入学して勝ちまくってたころはな 

E川選手は投手なんだが、バッターでも活躍してた

完投して抑えで出て、規定打数に達して打撃ベスト10にも入ったこともある

今で言えば二刀流やな 代打とかに出てた記憶もある

高校時代から肩を酷使してたので、プロ野球生活は短かった

そもそも大学入る時もプロ入る時も一悶着っていうか大騒ぎがあったんで

マスコミからは終始よく思われてなく 何か引退会見もその延長だった


おっと話がそれた


オレみたいに偏差値が高いらへんの高校のもんは、あかん気分で大学へ入ってくるけど

偏差値が低い高校から来たもんは、胸を張って入学してくる

ひとによって自己肯定感に差があるんやな


オレはそんな気分で大学5年間過ごしたので

それが一番の後悔やわ



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オレのいっとった大学人気6位 [70歳のじいさんにも青春はあったのだ]

京都に憧れた高校3年生だったが

結局京都の大学へは行かなかった

行けなかったが正確な表現かも


オレの欠点は変に現実的なところ

大学選択もそうだった

自分の模試の偏差値と授業料だけで志望校を決めてしまった

京都だけに絞り数打てば当たったかもしれないのに

自分の偏差値に合わせて、関東関西と散らばらせてしまった

ここに来て親の負担を少しでも減らそうと、授業料の割安なところばかり選んでしまった

うちは特に貧しいわけでもない中流家庭だったし、親もそんなこと拘ってなかったのに

場違いな親孝行心だった

一応京都は同じ大学学部二つ受けたが討ち死に

結局一個だけ受かった東京の大学へ進学した

仲いい友達が、オレの第一志望の大学を滑り止めにしてて

彼は第一志望の国立大学受かり、当然のことながらその大学蹴り飛ばしたとき

ほんとうに惨めだった

そして、もっと惨めだったのは、その京都の大学諦めきれず

違う友達Tに頼んで、大学に直接合否確認の電話してもらったことである

Tはちょうどその日パチンコで負けて、少ない報酬でもオレの無理な願いを聞いてくれたのだった

そんなん合否に間違いあるわけないわなぁ・・・

この話は今でも惨め自慢できるわさ


そして、オレは東京のその大学へ進学した。

でも、オレは全然なじめんかった

オレのクラスは附属第二高校からあがってきたやつらが固まっていた。

第二高校は横浜近郊でおれからしたら都会のやつらだ

田舎もんとしてのコンプレックス、関東弁へのコンプレックス、

上京し誰も知らない中ポツンと一人いるオレに対し、

はじめから知り合い同士のやつらがクラスをしきっているのがたまらなかった


ところがそうやってひがんでいるのはオレだけじゃなかった

だんだんひがみグループが集団をつくり、クラスは二つに分裂


ひがむ心はちょっとした憧れの裏返し

オレはそいつらから寝返ったのだ

しかし附属のやつらと仲良くなったのは嬉しかったけど

元のグループを裏切ったみたいで、心から喜べなかった

そういう葛藤はあとの人生で役立つかも知れないが

とりあえずオレにとっては、楽しい大学生活とはいえなかった


ただ武道館の近く北の丸公園でやつらがいつもやってたソフトボールかハンドベースに少しだけ参加できたのは

今となっては楽しい思い出である


オレたちの大学は学生運動のあるセクトの拠点校で

ことあるごとに大学側がロックアウトした

その一時代前学生側のバリケードストだっただったが、その頃は大学側が先手をとったのかそうだった

しょっちゅう定期テストがレポートにかわり

そのおかげで卒業できたみたいなもんやけど

オレは前述したようにこの大学への進学をよしとしてなくて

それが理由にはならないけど、ふざけて第1外国語をフランス語にしたのだった

ほんとふざけかたがおかしい

フランス語の先生の一人に芥川作家の人がいて、そのレポートは動詞の活用形を書くだけでほんとうに助かった

もう一人の先生も有名な人でたまにマスメディア出てくる人だったが、その人の課題は結構厳しめで苦労した

                                         つづく 

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1971年 祇園祭りの頃 [70歳のじいさんにも青春はあったのだ]

オレが高校⒊年生の夏やで多分1971年の夏や

チェリッシュが「なのにあなたは京都に行くの」の曲で

男子の多くは京都へ行きたがった

オレもその一人やった

オレも漠然と京都の大学へ行きたいと思とった

その高校生の夏、一足先に京都の大学に進学した一学年上の友人(その頃は帰宅部には先輩後輩の規律はあまりなかった記憶が・・ジャニーズみたく○○君てよんでいた)に誘われて、

京都の祇園祭りの日に京都へ向かった話や

たまたまその日が祇園祭りだったのか、それが目的だったのか、今となってはよくわからないが、

祇園祭りの日だったことは確かだ


その頃国鉄は民営化していなくて、津駅からは京都行きの直通急行が出ていた。

近鉄は大阪線回りで、大和八木・大和西大寺経由で、ずいぶん遠回り

それに比べ国鉄は草津線経由なので、

近回りで時間短縮、距離短絡で運賃も安くまた100㎞を切るので急行料金も100円だった

民営化してからは東海と西日本に分割され、利用客は近鉄に丸投げされてしまった

今や普通列車乗り継ぎ3駅、通しでJRに乗るのは、その時期の青春18切符ユーザーだけだろう


話はテツの道にそれたが、その津駅から急行志摩号で京都に向かった

同行は猪野君という一学年下の友人だった

オレたちの高校は制服規定のない学校だった

しかし、オレたちの学年までは男子は学生服を着ていたり、

女子は標準服という入学式で販売される服を着ていたりしていた

一つはマスクは個人の判断でと言われても、みんながマスクしているみたいなもんで、

制服ぽくない服装は、先生に目をつけられるような、みんなから不良と思われるみたいな同調意識やんか

もう一つは、単にみんな服装とかどうでもいいダサいやつらの集まりだったとも言えるけど

ところが猪野君はブルージーンズをはいて入学してきた

そして猪野君を核として、地味めでダサいオレたちの高校にカラフル服装革命がおこったのだ

オレはそんなセンスと勇気のある猪野君を年下ながら尊敬し、次第になかよくなっていったんさ

そして猪野君の近くにいれば、かわいい子と出会えるような気もしてた


その予感があたり、オレに彼女ができた

猪野君と図書館にいるときに近くにいた女子校生だった

声をかけたのはオレだったが、猪野君が一緒にいて心強かったのかも知れん

彼女の名前はせつこちゃん、背服はロングスカート私服は超ミニ

そんな女子はオレたちの高校にはいなかった


話を戻すと、そのせつこちゃんが津駅まで見送りに来てくれたんさ

オレは「なのにあなたは京都へ行くの」の歌のミニ版みたいな自分に嬉しかった

ところがそれに反して嬉しくないやつがおったんさ

それは猪野君さ

猪野君もせつこちゃんのこと好きやったんさ

せつこちゃんがオレを見送りに来たのがショックやったらしい

最初は暗い顔で落ち込んで

それから「なんでオレに言うてくれやんだん・・・」と

車中でずうっと責められた

気動車のエンジン音も、気まずい空気を消してくれなかった

でも、京都に着いたころには気を取り直してくれて

京都駅から市電に乗り、一学年上のともだち大杉君の待つ、k大k寮へ向かったのだ


k寮へ着くなり、オレらを待ってた大杉君から、

「ちょうどよかった(もう一つ上の)パラダ君の夜逃げを手伝ってくれ」

とか突然言われ、その夜パラダ君の下宿に連れて行かれた

パラダ君はめっちゃモテ男で、同じ中学でオレらの学年の女子をいっぱい持って行かれた伝説の男だ

それは高校でも勢いを増していた

下宿へ行くと大きな荷物が二つあった。

一つは古い行李、もう一つは紐でくくられた大きなもの

行李なんて50年前でも珍しかったが

どうやら家賃が払えなくて、k寮にころがりこむようである

k大生でもないのにk寮にころがりこむなんて、今でもあまり理解できない

学生運動が盛んだったその頃、k寮は学生が自主管理していた

k大生でもなく、学生運動の活動家でもない彼が寮に住めるなんて、未だに謎だ

その下宿へタクシーを呼び、荷物と4人は寮に向かった

記憶ではタクシー1台なのだが、4人+荷物では物理的に無理なんで2台だったのかも知れない

いや後ろのトランクに荷物が入れば1台もありかな・・・

でも、はっきりした記憶はタクシー代が足らなくて途中で下ろされたこと

まるで、テレ東の千原ジュニアの番組みたいに

でもジュニアは人間だけ降りるが、この夜逃げは荷物も降りる

それから寮まで、交代で荷物を持って歩くのだ

これが罰ゲームみたいにしんどかった

特にオレは4人の中で一番体力がないのですぐ弱音を吐いてしまう

われながら情けなかった

でも本来ならやらんでもいい仕事やのに……

そう考えると余計に情けなかった

夜の京都の町を4人が交代で荷物を持ち運ぶなんて、今なら誰かに通報されるか、snsに上げられるか・・・

そして結構かなりの距離を歩き、ようやくk寮に着いた

パラダ君は日当として、オレたちにラムネを振る舞ってくれことは忘れられない

ふつうは「こんなにしんどいめにあって、ラムネ一本かよ」と思うところだが

タクシー代がなくなったパラダ君にラムネ代があったのが不思議だった


翌朝、パラダ君の部屋行くと、さっそくきれいな女性が訪れていた

何でこんな男にこんなきれいな女子が寄ってくるのか、不思議というよりも腹が立ったのを覚えている

パラダ君はそれまでそのビジュアルでモテていたと思っていたが、

母性本能をくすぐられてしまうのかも知れない

多分お金も女性が出しているのかも知れない

パラダ君の父親は有名な大学教授で、ふつうは経済的には恵まれているはずやけどあの貧しい暮らしななぜ?

浪人してるという話だったが、大学に入れたのか?

その後のパラダ君の人生はどうだったのか?
地元のジーパン屋の店員だったらしいことは聞いたことはあるが、それ以外はわからない


タイトルは祇園祭りであるが、

祇園祭りのことは全く覚えていない

今年の祇園祭りの日と同じように猛暑だったのと

「祇園祭りに行く」という目的だったことだけは覚えている

祇園祭りのニュースを見るたび

夜の京都の町を歩いた、あの引っ越しを思い出すのであります




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このブログずっと忘れとったわ

このブログずっと放置しとった


ソネットから、かわったことも完全に忘れとった

移行したことも忘れとって

もうしんでるとあせったけど、生きとってよかったわ


明日で70の大台に乗る。何か残しときたいという気持ちがじわじわと来たんさ


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